文:INITIATI編集部
東日本大震災から10年。パソナグループは震災直後から被災地域の復旧・復興に向けた活動を開始。雇用創造を復興支援の柱と考え、被災地をはじめ全国で就労支援や人材育成に注力してきました。また、東北地方に活力を取り戻すため、復興イベントの企画やボランティアなどの活動も行っています。
東京生まれ・東京育ちで東北に行ったこともなかった戸塚絵梨子さんは、がれき撤去のボランティアで東北に通い、その後、パソナグループの社内制度である「ボランティア休職制度」を利用して1年間、岩手県釜石市のまちづくり団体で活躍。その後、社内ファンド「東北未来戦略ファンド」を通じて、2015年に「株式会社パソナ東北創生」を立ち上げました。設立6年目を迎えた今年の1月からは、釜石市の「しごと・くらしサポートセンター」の運営を手掛けています。今回は、そんな戸塚社長に震災から10年間を振り返り、今後に向けた思いを聞きました。
震災から10年、岩手県釜石市のいま
─東日本大震災から10年。いまの思いを聞かせてください。
ここからが正念場!これまで以上に頑張らねば!という気持ちです。これまでの10年間は、首都圏の民間企業から市役所に応援職員が派遣されてきたり、復興庁の予算で事業を行ったり、色々な面で支援を受けてきました。これからは地域が自立して、自分たち主導でまちづくりをしていく時期だと思います。
─いま地域はどのような状況ですか。
釜石市では、東日本大震災からの復興に向けた取組の指針となる「釜石市復興まちづくり基本計画」を進めてきました。三陸道という復興道路が開通し、つい先日、応急仮設住宅が全部取り壊しになったりと、一部でまだ工事が残っているものの、ハード面ではだいぶ整備されてきました。
一方、ソフトの面では、今後のまちづくりに向けた動きは、まだまだこれからという面と、10年が経つ中で新たに課題が表出している面の両方があるように思います。震災直後は仕事を無くして内陸部に移り住むような方も多かったのですが、足元の状況としては、工事などの復興特需はなくなったものの求人自体は常にありますし、復興期を経て事業拡大への足場ができたけれども人材不足で困っている企業もあるくらいです。人口の自然減、社会減が加速するなかで、ソフト面の整備や課題に向き合うことがより重要になっていると思います。
『しごと・くらしサポートセンター』の受託運営をスタート
―現在、パソナ東北創生で取り組んでいることを教えてください。
今までの5年間は、主に地域の外から如何にして人材を呼び込むかということに注力してきました。「研修ツーリズム」という首都圏企業の人材が地域課題解決やリーダーシップを学ぶツアーを実施したり、「大学生のインターンシップ」を受け入れたり。最近ですと「複業・兼業・プロボノ」として外部人材と地元企業をマッチングしたりしています。
現在は、2021年1月15日に開所した雇用・就業と移住定住促進の一体的な支援拠点『しごと・くらしサポートセンター』の運営を受託しています。就職相談や適職診断のほか、地域企業の人事や就業環境改善のご相談もお受けしています。オープニングイベントには、3日間で約300人もの方にお越しいただき、地域の期待を感じています。
地域の方の仕事のサポートをこのセンターでできるようになったことで、外部人材の呼び込みと、地元人材の活用や地元企業の成長促進支援を掛け合わせることができるようになりました。
―センターを開設した感触はいかがですか。
今回の施設運営にあたり、地元の方を2名雇用できました。念願だったので、すごく嬉しいですね。1日に10~15名程度の方が、仕事の相談やキャリアコンサルティング、適職診断にいらっしゃいます。
まだ始まったばかりですが、例えば、元気が有り余ってているけれど仕事が見つからない7~80代の方や、数年後にキャリアチェンジをしたいという4~50代の女性、コロナ禍で飲食店が廃業してしまった方など、様々な方がいらっしゃいます。ここでは具体的な求人とのマッチングはできないので、ハローワークと連携して支援しています。
センターは、釜石の「まちの人事部」の機能を目指しています。まちの中にどういう人材が必要で、どこでどのような人材が活躍すると地域がより良くなっていくかという、釜石を一つの会社になぞらえた時の人事部機能というイメージです。
この「まちの人事部」という概念によって、外部人材の呼び込みと地元人材の活用、地元企業の成長促進など、当社のやってきたすべての取り組みが一つになったと考えています。当社として、ようやく地盤ができたという印象です。
「ボランティア休職」から起業へ
―話を10年前に戻しますが、震災直後から東北に入られたんですよね。
はい。宮城県にがれき撤去のボランティアに通ったほか、音楽活動を通じて子供たちの心の健康をサポートする「パソナグループ東北こどもオーケストラ」の事務局として福島県郡山市にも毎月通っていました。
最初は軽い気持ちで東北の被災地に行ったのですが、行ってみたらあまりに被害状況の大きさに愕然としました。1週間程度ボランティア活動を行いましたが、自分ができたことがあまりにも小さすぎて…。1回だけ行って満足したらダメだなと思い、仕事と並行してできる支援の形を見つけたいと思いました。
当初は月に一回程度被災地に通いながら、ボランティアと仕事を両立していこうと思っていたのですが、移住して暮らしを共にしながら支援活動ができないだろうか、と考えるようになってきました。
一番強くそう感じたのは、月に一度行くと地域の方にすごく感謝していただけるのですが、一方でそれ以上の関係にならない「壁」を感じてしまったことです。「ありがとう」と言ってもらう関係から、嫌なことやしんどいこと、不満も含めて話してもらえるような関係になりたいと思い、震災の1年後からボランティア休職制度を利用しました。
―ボランティア休職中はどのようなことをされていましたか。
地元の人が立ち上げた団体の運営に携わりましたが、休職した1年間を振り返ると、私が支援できたことはほとんどなくて、逆に被災地の方々の力強い生き様に感銘を受けることや、学ぶことのほうが多かったと感じます。
自分の中の変化として一番大きかったのは、「いつかと思っていたことを、今やろう」と思うようになったことです。「いつかやろうと思っていたけれど、津波によってその日が来なかった」という話を、日常的に聞く環境でしたので、やりたいことは今日からでも始めなくてはと思うようになりました。
また、休職当時はまだ社会人4年目でしたので、もっと経験を積んでから釜石に行ったほうが力を発揮できると言われることもありましたが、行ってみた感じたことは「その時の自分だからこそできることもある」「生きてきた背景が違うからこそのアイデアや意見が出せる」ということです。大学生だろうと社会人だろうと、その人ならではの強みがあり、持っていない力は、色々な人と協力し合うことでカバーできると学びました。
私が働いていた団体では、立ち上げた方の強烈な想いやビジョンに人が集まって、いろんな力を結集させながら物事が進んでいく様子を間近で経験させていただきました。できるから人がついて来るのではなく、想いがあるからついて来るんだと痛感しました。
―復職後、もう一度東北に戻ったのはなぜですか。
復職して2年間くらい、東京・丸の内で人材派遣事業の営業をしました。被災地では、生と死が日常的に目の前にあることが当たり前という環境の中で過ごさせていただいていたので、休職期間中に自分自身の人との向き合い方が変わったような気がしたんです。もう一度、休職前と同じ派遣サービスの現場で、働く人一人ひとりに向き合ってみたいと思いました。
2年間の仕事自体はすごく楽しかったですし、チームのメンバーにもとても恵まれました。自分として、「人と向き合うってこういうことなんだな」と感じられる瞬間も何回かあり、次の目標を立てたいと思い始めました。
また、震災から数年が経過し、現地でボランティアとしてのニーズが減少し、これからは新たな産業を作るなど本業として関わる必要性も感じるようになりました。
今後、ボランティア休職でお世話になった釜石と、一年に一度の旅行という形で交流していくのか、現地の一員として本業として関わるのかを決めなければという気持ちが大きくなっていったんです。
そして2015年、起業を決意しました。
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