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INITIATIVE「自分のキャリアは自分で創る」WEBマガジン

イベント 2016.04.14 元バドミントン日本代表 小椋久美子さんが語る「夢を実現するチカラ」

文:INITIATIVE(イニシアチブ)編集部

2016年2月27日に開催されたパソナグループ「職博」において、元バドミントン日本代表の小椋久美子さんをお招きし、「夢を実現するチカラ~努力が人生に刻んだモノ~」と題し、成功の秘訣と、道を切り拓き夢を実現するヒントをお話しいただきました。




――バトミントンを始めたきっかけを教えてください。


小椋さん(以下、敬称略):
姉・兄が先にバドミントンを始めたので練習に付いていくようになり、小学校2年生のとき私も始めました。

――小学校3年生で県大会3位になり、小学校4年生では県大会1位になったと聞きましたが、その頃から才能が発揮されていたんですね。

小椋:
私はすごく負けず嫌いで、姉や兄と一緒にスポーツをするなかで、どうしても勝ちたくて。でも一番は、「バドミントン」というスポーツが私に合っていたからだと思います。当時は、水泳、合気道、ピアノもやっていましたが、幼いながらも「自分に合っていないな」とか、「頑張っても結果は残せそうにないな」と思い継続できないなかで、唯一続けていたのがバドミントンでした。

中学2年生で初めて全国大会に出場し、中学3年生のときに3位になりました。当時、「全国大会で3位になる」という目標を掲げていたので、目標を叶えることができてすごく嬉しかったです。しかし、喜んでいる私を見て監督はものすごい剣幕で怒りました。

「目標達成できたのに、何で怒られるの?」と当時は思っていたのですが、よく考えれば当たり前ですよね。先生は私に、優勝できる可能性があると期待していたにも関わらず、私は、当時から強くて有名だった2人の選手には勝てないと自分の中で決めつけて、「3位になる」という目標を立てていました。

この経験を経て、目標として立てた以上の結果は残せないということに気付きました。叶えられる目標ではなく、「叶うか叶わないかは分からないけれど、自分がどうありたいか」という観点で目標を立てるようになりました。もしあの時一緒に先生が喜んでくれていたら、そこには気付けなかったと思います。

高校はバドミントン推薦で入学しました。バトミントン部は監督がとにかく怖くて、何をしても怒られ「優勝しか意味がない」という雰囲気でした。私は身長が高く、期待が大きかったのもプレッシャーでしたね。「強い気持ちで試合に臨め!」と言われても、監督の思いと私の気持ちが交わらず、精神面で大変なことは多かったです。

入学当初の私は、バドミントンが好きという気持ちだけがモチベーションでしたし、今振り返ってみても目標設定が低い、“ぬるい”選手だったと思います。周りからすると、「もっとできるのになぜ努力しないの?」と思われていたと思いますね。

しかし、監督から「優勝しか意味がない」と言われ続けたことによって、次第に自分も「優勝したい」という気持ちを抱くようになりました。置かれた環境や意識付けによって、目標を高く持つことができたので、監督の厳しさも愛情だったのだと、今では本当に感謝しています。

高校では、一度も優勝することができなかったのですが、インターハイと選抜大会で準優勝しました。全国大会で3位以上に入ると海外遠征の選抜メンバーに選ばれたので、海外での試合にも参加していました。

のちにペアを組むことになる玲ちゃん(潮田玲子さん)と初めて会ったのも高校生の時です。全国の選抜メンバーが男女50人ほど召集される合宿で出会いました。大阪と福岡、違う高校にいたのですが、お互いシングルスプレーヤーということもあり、練習でダブルスをする際にペアを組むことになりました。

ダブルスをよく知らない同士が一緒に組んだのですが、それがすっごく面白くて。この経験がきっかけとなり、「一緒にペアを組んでやってみたいね」という話はしていたのですが、学校が違ったため2年間は海外の試合でだけペアを組んでいました。




――高校を卒業して、その後三洋電機に就職されましたが、大学進学ではなく就職を選んだのは理由があったのですか?
 
小椋:
バドミントンは、男子は大学に進学する人もいますが、女子はほとんど就職しプロになるため、就職への迷いはありませんでした。ただ、持病のヘルニアで高校3年生のときプレーができなくなるくらい追いこまれてしまっていたので、当初はバドミントンを続けられないなら、実家に帰ろうと思っていました。三洋電機からは、それでもいいからきてくれ、といわれプロへの道を決断しました。

就職活動後は、ほぼ毎日バドミントンの練習がある一方で、仕事は週2回、半日だけ働く、というサイクルでした。私の部署は「バドミントン事務局」で、スケジュール表の作成やチケットの手配、報告書の作成のほか、新聞を作り各地への配送などもしていました。

一般的なOLさんの様な仕事はしていなかっやので、自分がバドミントンを辞めた時どうなるか、仕事はできるのかな、という不安は常にありました。

――社会人になったのが2002年で、2004年にはアテネオリンピックがありましたよね。2003年に足の指を骨折され、これが原因で出場できなかったのでしょうか?

小椋:
バドミントンは、オリンピック出場権を得るまでの道のりが長いんです。大きな大会に勝てば出場できるのではなく、4~5ほどあるオリンピックレースの大会を戦い抜かないといけません。その大事な1年が始まったときに、怪我で離脱しました。骨折したときは、私だけではなく玲ちゃんも関わってくるので、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

最初は怪我を受け入れられず、手術したら復帰まで半年はかかると言われたので、手術を拒否し続けました。気持ちが焦りすぎて、自分の怪我が受け入れられませんでしたね。以前からコーチには、「怪我は神様が与えてくれた休養の時間なんだ」と教えられていましたが、その時ばかりは時期が悪すぎました。よりによって、なぜオリンピック前なのだろうと、涙が止まりませんでした。

しかしそんな時、別のコーチが掛けてくれた言葉が、自分を見直すきっかけとなりました。それは、「怪我には理由がある」という言葉です。

当時、シングルスで優勝し、どこか自分で自分を過信し、練習にもきちんと取り組んでいない部分がありました。自己管理がきちんとできておらず、周りの人に対しても優しく接してなかったこともありました。コーチと話をしていて、そんな自分の至らない部分が次々と思い起こされ、今怪我をしてもしょうがなかったんだな、と素直に思えるようになりました。

怪我を受け入れられてから、手術をして100%のコンディションでコートに戻ろうと決意できました。コーチの一言がなければ、ずっと誰かのせいにしていたと思います。

リハビリは過酷でしたが、体のバランスなど細かいところも考えながら日々努力を積みました。「早くコートに戻らないと周りから置いていかれる」という不安は常にありましたね。

でも、玲ちゃんは「早く帰ってきてね」など焦らせるような言葉は絶対に言いませんでした。玲ちゃんは背中で「いつでも帰る場所はあるからね」「ここは私が守っておくからね」と語り掛けてくれていました。言葉にはしなくても、絆を確認することが出来ました。

私たちはアテネオリンピックには出場できませんでしたが、身体がぼろぼろになっても、テーピングや痛み止めを打ちながら練習に励んでいる先輩達を見て、自分達は出場できなくてもしょうがなかったと感じました。それだけ何かを犠牲にして死ぬ気でやらないと夢は叶わない、ということを実感しました。それからの4年間は、「とにかく死ぬ気で頑張ろう」と玲ちゃんと話しました。




――アテネオリンピック出場を逃しましたが、その後いよいよ北京オリンピック出場を決めます。一回戦で入場するときの気持ちや、初めて立ったオリンピックの舞台はいかがでしたか?

小椋:
1年間のオリンピックレースが終わり、出場が決まって一番に思ったのは、夢が叶う喜びと、やっとオリンピックの舞台に立てることへの安堵感でした。オリンピックの舞台に立つ、そのスタートラインまで来たことに安心しました。

試合当日は晴れ晴れとした気持ちでした。選手村でものびのび過ごしていましたし、会場での練習も緊張はしなかったです。しかし、いざ試合が始まる直前、自分の名前がコールされたとき、一気に緊張の波が押し寄せてきました。コートまで歩く道のりはまったく覚えていません。

プレーが始まってからも足が地面に張り付いているようで、まったく動かなくて。足が動かないと、何とか体を動かそうとそこに集中し、頭がそのことしか考えられなくなってしまうんです。人は頭と体が連携しているものなので、足が止まると頭がとまり、頭が止まると足がとまり、目の前のラリーを返すことに必死になっていました。

先輩からは「オリンピックの舞台は立ってみて初めてわかる」と言われていました。普段だと、試合前は出場選手を分析したり、会場の雰囲気を調べたり、ある程度試合の分析をすることができます。

しかしオリンピックは、それぞれの選手の思いが錯綜し、ものすごく独特な雰囲気なんです。すごく強いトップレベルの選手が負けてしまったり、今までないようなことも起きてしまう大会です。



――オリンピック出場を果たし、得たものはありますか?

小椋:
これからの人生の中でこれ以上頑張ることはないと思えるくらい、オリンピック出場をかけた4年間は私にとってかけがえのないものになりました。しかし、終わった後は多くの方の支えで出場できた大会でメダル獲得を逃したことに、申し訳ない気持ちで一杯になってしまって。そのあと4年間くらいは、「元オリンピック選手」という肩書きは使わないで欲しいとお願いしていました。

その気持ちが晴れたのは、4年後のロンドンオリンピックでした。選手としての出場は叶いませんでしたが、会場で競技の模様を客観的に見たとき、「この舞台に立てること自体が素敵なことなんだ」と気付き、オリンピックに出場したことを初めて誇れるようになりました。そういう気持ちになるまで、4年かかりましたね。

選手をやっていて良かったことは、自分の弱い部分と強い部分を把握できたことです。バドミントンにおいては、技術的に優れていないことは自分でも分かっていたので、相手の技術を盗んだり、納得いくまで練習に励んだり、自分ができないことを認めながら最低限のレベルまでもっていく工夫をしていました。弱い部分を知っているのは、強さだったと思います。

――大好きだったバドミントンを辞めるときは、どのような気持ちだったのですか?

小椋:
できるならロンドンオリンピックにも挑戦したかったですし、もう少し頑張れると思っていましたが、オリンピックに挑むだけの精神的な強さを維持できなくなり、自分の中で「もう無理だ」という気持ちが勝ったとき引退を決断しました。

辞めた後に何がしたいかは正直すぐには見つからなかったです。これまでバドミントンしかやってきていないので、バドミントン以外の業界に行ったときに自分がやっていけるか不安な部分はもちろんありましたが、寂しさより清清しさの方が大きかったですね。

――最後に、今後はどのような活動をしていくのか教えてください!

小椋:
今後は、子ども達への指導をしていきたいと思っています。子ども達には、まず「やってみたいな」と思って貰えるきっかけ作りをし、技術的な指導というより「スポーツが好き」という気持ちを伝えていきたいです。また、「バドミントン」という競技がもっと社会から注目され、メジャーになる環境づくりをすべく、メディアを通して伝えていきたいです。


●小椋久美子さん
1983年7月5日生まれ。三重県出身。三洋電機入社後の2002年には全日本総合バドミントン選手権シングルスで優勝。その後、ダブルスプレーヤーに転向し、北京オリンピックで5位入賞、全日本総合バドミントン選手権では5連覇を達成。2010年1月に現役を引退。同年3月、三洋電機を退社。現在は解説や講演、子供たちへの指導を中心にバドミントンを通じてスポーツの楽しさを伝える活動を行っている。

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